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赤塚不二夫とタモリ

赤塚不二夫の葬儀でタモリが弔辞を述べたのは知っていました。

その最後に「私もあなたの作品ひとつです」といった、というのもテレビのニュース(?)でチラッと見て知っていました。

デハボ1000さんのブログで、赤塚不二夫とタモリを「森田療法」と絡めて論じているのを読んで、意外な取り合わせて少々面食らいましたが、タモリの弔辞全文を読むと、妙に納得してしまいました。

私らの少年時代は、イヤミのシェーですね。私もずいぶんやりました。なんでしょう、特に意味づけなどは考えませんでしたが、楽しくスカッとしたのを覚えています。

タモリの番組では、「笑っていいとも」はほとんど見ませんが、「タモリクラブ」は好きですね。とくに「空耳アワー」が好きでした。

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そのタモリクラブから、番組に出演しないかとの打診がかつてありました。「つまようじブリッジ」を番組の中でやりたいとのことでした。

かつてつまようじブリッジコンテストについて、「何の役にも立たないことにエネルギーを費やすアホ」とかという非難が浴びせられたことがありまして、その中に「まるでタモリクラブ的暇人」というのがありました。これは、「つまようじブリッジ」に対して寄せられたどんな賛辞よりもうれしかったのを覚えています。だから「タモリクラブ」には出たかったですね。

実は、つまようじブリッジコンテストの記録が伸びてくるにしたがって、テレビ局等からの問い合わせもたくさんありました。没になった企画もたくさんあるのですが、正直没になっておしいなぁと思ったのは「タモリクラブ」だけです。

旅費を出す予算がない、という理由でしたが、結局東大泉研の「パスタブリッジ」にさらわれてしまいました。この研究室「強度信頼性研究室(Fracture Mechanics Laboratory)」なのですね。

その後つまようじブリッジコンテストは、最終回となった11回大会の最後の最後で300キロの記録が出て終わりになりましたが、そのときの心境を一言でいえば「シェー!」が会うかもしれません。

タモリの弔辞、なかなか良いと思いますので引用紹介をしておきます。デハボ1000さんのブログからの重引で、オリジナルは産経新聞とのことです。

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 「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないなら、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。
                平成20年8月7日、森田一義

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コメント

こんにちは。
確かに、一瞬戸惑われるかもしれません。この記事をみまして、当ってみましたがこの弔辞を解したのはほかに見かけません。
現状肯定が全ての生き方に対して通るとは思えないですが、この境地に至った赤塚氏の人生について考えてみたいと思ったものでした。

投稿: デハボ1000 | 2008年8月12日 (火) 11時11分

デハボ1000 さん

確かに、すべての人が赤塚不二夫であったりタモリであったならば社会が成り立たないでしょうね。
それでも、デハボ1000 さんのブログを読んで、一世を風靡した漫画やお笑いには、時代が要求していた魂のありようのようなものが映しこまれているのだなぁ、と感じました。
「これでいいのだ」という言葉は、ふっと肩の力が抜け、無の境地に誘い込んでくれるようです。

効率や「その意義意味は何か」改革・自己改革とぎりぎり問う汗臭い世界の中で、ほとんど無駄と思われることに夢中になるのも、言ってみれば無の境地かと。
既存の宗教が形骸化している中で、カルト集団にも入ることなく平凡に生きている人たちの命を、赤塚不二夫は何万人という単位で救っているのかもしれないなぁ・・・なんてことをブログを読んで感じました。

投稿: SUBAL | 2008年8月12日 (火) 18時44分

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