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単行本出版の経緯 その3 教える立場になって

 非破壊検査の仕事を始めて10年ほど経過したころ、死生観を変える出来事に遭遇しました。長男を8か月で亡くしたのです。ボルタレンというよく効く解熱剤を処方されてそれが原因でけいれんを起こして亡くなりました。今は幼児への処方は禁止されています。当時は欧米ではとっくに禁止されていたのに日本ではまだ処方されていました。 

 1991年の大晦日の午後、小さな棺をガス釜に入れるとき体の奥の芯のほうから「順番が違う」という声が聞こえてきたのです。体験としては神秘的な感じなんですが、トーンとしてはバス停で並んでいた時に割り込んできたやつに言っている感じなのです。でも抑えることのできない感情でした。

 死んだ気で生きるといいますか、何でもいいから思いっきり人生を変えたいと思いました。人生を変えるといっても、一体自分は何をやるべきかやりたいのか、すぐには答えが出ません。ただぼーと空を見つめる中で、10代の終わりに一度は志した人を教える仕事をしてみたいと思いたちました。そうはいっても、アラフォーの年齢では教員の仕事などそうそうあるものではありません。バブル崩壊のころでした。

 たまたま駒大苫小牧高校で教員を募集していることを知り、履歴書を送りました。10日ぐらいのちに「書類選考の結果御希望に添えません」という不合格通知とともに達磨の絵が入ったテレフォンカードが送られてきました。面接までも行かず書類選考で落とされたのは残念でしたね。運よく駒大苫小牧高校に入れていたら、甲子園奇跡の2.9連覇を職員として体験できたのかもしれません。それはそれで大変でしょうけれども…。

 1992年2月のある朝トイレで新聞を読んでいたら、求人広告(そういえば最近見ないなぁ)に千歳の航空専門学校の教員募集を見つけました。「道徳」の教員でした。一瞬躊躇しました。どう考えても道徳を教える柄ではありません(笑)。でも航空専門学校なら非破壊検査も英語もあるだろうということで、非破壊検査の職務経歴書をつけて履歴書を送りました。だめでも飛行機のテレフォンカードぐらい手にはいるだろう、買わない宝くじには当たらない・・・。試験は受けられることになりました。1人の枠に20人以上応募していて、そのほとんどが私より若い人でした。「プラトンの国家論について書きなさい」という試験問題にほか応募者は快調に鉛筆を走らせている音が聞こえました。私は「ソクラテスの弁明 悪法も法なり」と1行書いたまま後が続きません(汗)。だめだなと思っていたら、道徳教育の教員ではなく非破壊検査の教員として採用になりました。

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 それは一生懸命やりましたね。やりすぎて空回りすることもしばしばでしたが・・・(笑)。

 このころ私が意識してやったことは次のことでした。

(1)わかりやすい授業にすること。

 これは日々の授業の実践を通じて、要は学生たちの反応を見て試行錯誤していく。泥臭い方法しかありませんでした。私は教育系の学校(北海道教育大学)を出ているのですが、大学では「教育技術」は教わっていません。唯一教育実習がそれにあたるのかもしれませんが、これは現場の教師に丸投げでした。調理師の養成学校で栄養学や料理の歴史は学ぶけれど、衛生管理の実務や包丁やフライパンの扱い方は習わないのと同じなのです。

(2)教員としてのバックグラウンドを広く深くしていくこと。

  1.   非破壊検査だけではなく材料の科目も受け持つことになりましたから、材料に関する勉強を深める。本で勉強することもさることながら、実際に破壊試験や加工を自分でやって経験を蓄積していくこと。勤務先でやれないことは、前職で知己を得ていた苫小牧高専のO教授のところに通いました。熱処理、レプリカ法、電子顕微鏡での組織観察・・・等々。O教授のご厚意でした。私は金属材料に関しては、苫小牧高専機械工学科卒だと思っています。もちろん「もぐり」です。
  2.  非破壊検査技術のブラッシュアップと資格のレベルアップ。教える人も楽しく一生懸命学んでいてある程度の高みにいる、教育にとって重要なことだと日々の実践の中で感じてきたことでもありました。およそ8年をかけてNDT全部門レベル3、非破壊検査総合管理技術者の資格を取りました。テッペンをとったときは「チョー気持ちいい!!」でした。
  3.  卒業生の就職先にもなる航空機業界の非破壊検査事情を取材して歩きました。いろいろまわりましたが、取材をもとに科学技術振興機構から補助金をもらって「ジェットエンジンの非破壊検査」という教材を作らせてもらいました。補助金といってもスズメの涙、交通費でほとんど消えていく程度でした。

 実際に教壇に立ってみると、「わかりやすく教える」ということがいかに難しいかを日々痛感しました。大勢の学生の理解度と心理状態を把握して、それに見合う方法を考え準備して、確認していく。やり始めるとそれは膨大な労力を要し、やがて心身共にくたくたになります。現場仕事はいかに大変でも必ずエンドがあるのに対して、教育の仕事は蟻地獄のように際限がないのです。体を壊しては元も子もない、何とかしなければなりません。

 追い詰められれば知恵は出てくる。私が考えたのは次の3つでした。

  1.  機械的やれることは機械でやる。ビデオ映像や教育用ソフトの活用を考える。
  2.  すべてを教えるのではなく、何を教えないかを考える。教える内容に穴をつくる。
  3.  上記の合理的「手抜き」で残る部分をFace to Faceで、つまり丁々発止で教える工夫をする。

 まぁ、考えてみれば書籍(本)というものも、印刷物に固定した言葉であり、教育手段と見ることもできて、それでできることはそれでやればよいのだということになります。学習の本質は独習であり、教員は独習を有効にアシストすればよい、学校はそれをシステムとして展開する。そのように考えると蟻地獄から抜け出す手がかりが得られそうでした。

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